前回,“外務省にもの申す”として僕の体験とそれに関する卑見を述べた際に,同時に外務省に宛ててその内容を見てほしい旨メールを送った。それに対する外務省よりの返信が去る 5月 21日 17:25:57 JST にあった。
あくまで私信であるゆえ,その内容をそのままここに引用して公開するのは憚られるが,そのいわんとするところはおおむね次のように整理できよう。
旅券の発給処理とその管理にはコンピュータを用いており,データ処理に統一性を持たせる必要がある。また,公文書たる旅券のごとき証書については表音表記の記載に関して法的な決まりや規定が存在しないため,ある種の統一基準が必要だ。▽外務省としても現在の扱いが必ずしも最善とは考えていないが,以上の理由から外務省令で旅券の表記はヘボン式ローマ字による旨を定めている。▽なお,氏名の表記については,アイデンティティーに関わる問題でもあり,将来の課題として国民がより納得できる方式を研究しているよし,理解してほしい。
※ 下線による強調はいずれも関堂
これを読む限り,外務省の担当者は僕のいわんとするところを正しく理解できていないようである。理解できないほど脳が不自由とは思えないし,要はきちんと読んでいなかったのであろうと想像できるわけだが…。
まず,外務省はあのマヌケな表記方法の根拠として“統一性”を掲げている。特定の人のみが異なる表記方法をとってしまうのでは,この“統一”が図れないということなのだろう。
どうも先方は,僕が僕自身についてだけ表記方法を改めてほしいといっているように受け取ったと思われるのだが,これは勘違いもいいところだ。当方が前回わざわざいろいろな具体例を引き合いに出したことの意図を正しく理解していないと断ぜざるを得ない。
僕にいわせれば,外務省のいう“統一性”は“国民個人の同一性(identity)をないがしろにした都合のいい統一性”にほかならない。関堂(せきどう)と関戸(せきど)はもとより,加藤(かとう)と加戸(かと),大久保(おおくぼ)と小久保(おくぼ)をそれぞれ一緒くたにしておいて,なんの“統一性”といえようか ――ちなみに,前述の姓はいずれも実在するものである――。
なにも“統一性”を失わしめろといっているわけではないのだ。加藤はKatouなりKatohなりで“統一”すればいいだろう。それよりもKato として,他と一緒くたにしていることが問題だといっているのが,理解できないのだろうか? ――省としての情報処理能力はおろか自然人としての情報処理法力もずいぶんオソマツなのものといわざるを得ない。
さらに,外務省はローマ字表記“統一”の手段としてヘボン式(ヘップバーン式)をあげるが,この点も得心がいかない。
僕の記憶が確かならば,小学校の国語の授業で習ったローマ字のヘボン式表記においては,長音を表す際にはその母音にサーカムフレックス・アクセント(^もしくは ̄)を付すべし,とされていたはずである。ところが,(僕にいわせればヘボン式と似て非なる)外務省式表記ではこうしたサーカムフレックス・アクセントは用いられていない。外務省がそれほどまでにヘボン式ローマ字を主張するのであれば,むしろ本来のヘボン式に合わせて(サーカムフレックス・アクセントを用いて)然るべきだろう。それをなさずして“ヘボン式”とは,まったくなにをかいわんやである。
最後に,僕が失望したのが「将来の課題」という言葉だ。要は,「今はそれどころじゃないからやってられない。そのうち考えるから(期待しないで)待っていろ。」といっているように見受けられるのだが,ほかの人はこれをいかに受け取るだろうか? ――おそらくは,僕と大差ないものと想像するが…。
僕のいっていることが取るに足らないと思われているのだとしたら,それこそ心外だ。僕のような比較的珍しい姓を有する者のみならず,現に今多くの国民が自分の同一性(identity)をないがしろにされるという害を被っているのである。これまで多くの人が「お上のいうこと」(この認識こそ誤りであるわけだが)に従っていたのかもしれず,ゆえに外務省もそれをいいことに寝た子を起こさないようにしていたのかもしれないが,今やそうはいかないと知るべし。
外務省に巣くう情報処理能力の劣る者どもよ,改めていうまでもないことだが,あなたたちは公に奉仕することの対価として僕らの労務の成果からいくばくかの施しを受けているのだ。具体的には,僕のみならず日本全国の加藤さんや佐藤さん,大久保さんらの血と汗の結晶のおかげで食っていけるといっても過言ではあるまい。それを軽んじようなどとは…ゆめゆめ思ってはならないだろう。
そちらが多忙で現状を把握することすら難しいと申すなら,僕が代わって全国の害を被っている人たちからの署名を募ってやってもよろしいぞ。それとも…寝た子を起こされたくないとでも申すのかな?さて,如何。